ずれてるが、30日の日記だぞ
2001年12月31日毎度…思うのだが。夜中にこの日記を打ち込んでいると当たり前なんだが、日付がずれるんだよね。
だから、《30日の日記》の項目は、実は12月29日のコトを言っているんだなぁ…っていうのが今更ながら確認しておかないと、読み返した本人もこんがらがってくる…その為に〈昨日の日記〉というチェック項目なんだな…憎い心遣いだね♪
まぁ、いいんだけど。ちょっと感心しただけだから。
本日は…年賀状作ってました。
CDの整理をして、普段頻繁に聞くモノと、たまにしか聞かないけれど、なんとなく聞きたいモノとの入れ替えをして…という前準備があったのだけれども。
昔っから試験前には部屋の準備、レポート書く前には本棚の整理…というやうに、やる気のないワタクシは余計な手順が必要だったんですな。
たまに、遠藤周作氏の『女の一生』を読みながら…氏の作品は、読み易さにつられて、すいすい読んでしまうけれど、実はとんでもなく切ない話がほとんどだ……どんどん物語と自分の中に引き籠もっていくもう一人の[私]がいるのに気付く。
それは、どうしてか?
氏の作品のモチーフには、明かに、【キリスト教_カトリック】というのが横たわっているが、しかし、ソコだけに留まることなく…もっと普遍的なテーマ、キリスト教をちょっとしか知らない者でも引き込まれ、突きつけられる【ナニか】によって、誰しもが内なる【自分】との対話を始めさせられてしまうような気がする。
膨大な著作のある氏の、そのほとんどを読んだわけではないし、まだまだ読み込んでいないから、詳しいことは書けないが…ご自分の信仰に対して、これ程悩み、苦しんだコトから、すっぽーんと突き抜けてこられた人(日本人作家)はいないのではないだろうか?
作家個人の信仰…例え仏教であれ、神道であれ…が多かれ少なかれ作品に影響を及ぼし、尚かつ作品の方向性として打ち出されている数々の作品の中で、私は氏の作品程素直に受け入れられるものはない。
氏の作品が、幾度となくノーベル文学賞の作品候補に挙がっては落ち、上がっては落ちたのも一重にその作品内での、イエス・キリストの評価にあるというが(そりゃぁ、犬死に呼ばわっては、西洋では目くじら立てられるって!)、氏の作品から立ち上る《優しさ》は、彼がイエス・キリストに求めた《やさしさ》であり、その葛藤を通して見つけた《信仰》の在処みたいなモノだったんではないだろうか?
実際、彼に会ったことはない。
だから、どんなヒトだったのかは知らない。気さくなヒトとして知られる某冒険好き酒飲み作家だとて、その名声を盾に、個人的欲求を押し通す為に、一介の事務員でしかないねーちゃんを某事務所から追い出してしまったらしい(間には勿論件の事務所があるワケだが…大先生との仕事と、一介の事務員とじゃぁなぁ…)というぐらい!現実というのはみえないからね……それでも、なんとなく氏の作品は、信じてしまえるのだ。
そういう感覚は、時として盲目的で、アブナイけれど。
それでも…氏の作品の持つ《優しさ》…時として一番危険なモノは【優しさ】であると理解しつつも…は、私を呼ぶのである。それは、やり切れなさを伴った、切ない優しさでもある。
でも、今年も押し迫ったこんな日には、世相に呼応するように…やるせなさを噛み締めるのもいいんじゃないかなって?思う。その方が、誰にでも優しくなれると思うからね。
許せないよりも、許す方がいいと思うよ。
ずっと誰かを憎み続けるのは、疲れるんじゃないかって?元から気力・体力の乏しい私なんかは思います。
う…‥ナニ書いてんの判んなくなってきた。
と、いうコトでお仕舞い。
明日は、ビビンバ・パーティーだ!!
だから、《30日の日記》の項目は、実は12月29日のコトを言っているんだなぁ…っていうのが今更ながら確認しておかないと、読み返した本人もこんがらがってくる…その為に〈昨日の日記〉というチェック項目なんだな…憎い心遣いだね♪
まぁ、いいんだけど。ちょっと感心しただけだから。
本日は…年賀状作ってました。
CDの整理をして、普段頻繁に聞くモノと、たまにしか聞かないけれど、なんとなく聞きたいモノとの入れ替えをして…という前準備があったのだけれども。
昔っから試験前には部屋の準備、レポート書く前には本棚の整理…というやうに、やる気のないワタクシは余計な手順が必要だったんですな。
たまに、遠藤周作氏の『女の一生』を読みながら…氏の作品は、読み易さにつられて、すいすい読んでしまうけれど、実はとんでもなく切ない話がほとんどだ……どんどん物語と自分の中に引き籠もっていくもう一人の[私]がいるのに気付く。
それは、どうしてか?
氏の作品のモチーフには、明かに、【キリスト教_カトリック】というのが横たわっているが、しかし、ソコだけに留まることなく…もっと普遍的なテーマ、キリスト教をちょっとしか知らない者でも引き込まれ、突きつけられる【ナニか】によって、誰しもが内なる【自分】との対話を始めさせられてしまうような気がする。
膨大な著作のある氏の、そのほとんどを読んだわけではないし、まだまだ読み込んでいないから、詳しいことは書けないが…ご自分の信仰に対して、これ程悩み、苦しんだコトから、すっぽーんと突き抜けてこられた人(日本人作家)はいないのではないだろうか?
作家個人の信仰…例え仏教であれ、神道であれ…が多かれ少なかれ作品に影響を及ぼし、尚かつ作品の方向性として打ち出されている数々の作品の中で、私は氏の作品程素直に受け入れられるものはない。
氏の作品が、幾度となくノーベル文学賞の作品候補に挙がっては落ち、上がっては落ちたのも一重にその作品内での、イエス・キリストの評価にあるというが(そりゃぁ、犬死に呼ばわっては、西洋では目くじら立てられるって!)、氏の作品から立ち上る《優しさ》は、彼がイエス・キリストに求めた《やさしさ》であり、その葛藤を通して見つけた《信仰》の在処みたいなモノだったんではないだろうか?
実際、彼に会ったことはない。
だから、どんなヒトだったのかは知らない。気さくなヒトとして知られる某冒険好き酒飲み作家だとて、その名声を盾に、個人的欲求を押し通す為に、一介の事務員でしかないねーちゃんを某事務所から追い出してしまったらしい(間には勿論件の事務所があるワケだが…大先生との仕事と、一介の事務員とじゃぁなぁ…)というぐらい!現実というのはみえないからね……それでも、なんとなく氏の作品は、信じてしまえるのだ。
そういう感覚は、時として盲目的で、アブナイけれど。
それでも…氏の作品の持つ《優しさ》…時として一番危険なモノは【優しさ】であると理解しつつも…は、私を呼ぶのである。それは、やり切れなさを伴った、切ない優しさでもある。
でも、今年も押し迫ったこんな日には、世相に呼応するように…やるせなさを噛み締めるのもいいんじゃないかなって?思う。その方が、誰にでも優しくなれると思うからね。
許せないよりも、許す方がいいと思うよ。
ずっと誰かを憎み続けるのは、疲れるんじゃないかって?元から気力・体力の乏しい私なんかは思います。
う…‥ナニ書いてんの判んなくなってきた。
と、いうコトでお仕舞い。
明日は、ビビンバ・パーティーだ!!
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